長野電鉄の都住駅-桜沢駅間にある4種踏切の写真を撮りました。この踏切は前後が大きめのカーブになっていて、電車を見学するにはなかなか良い場所です。
上の写真は桜沢駅方面です。
写真を撮っていると架線柱にタグのようなものがついていることに気がつきました。
これです。”河東線 小六三 大14.12″と読めます。
以前存在した河東線の名前が入っていますが、河東線は信州中野-木島までだったのではないかと不思議に感じました。帰宅してから調べてみたところ、長野電鉄は当初屋代-信州中野間で運転されており、そちらが河東線、その後開業した権堂-須坂間が長野線とされていたそうです。
全線電化したのは大正15年の初頭ということなので、設置年月が大正14年12月というのも納得です。
全部の架線柱がそうではないらしいのですが、この場所のように長野電鉄では開業当時の設備が現役で稼働しているのをよく見かけます。創業者の神津氏は非常に倹約家だったと本で読みましたが、その一方で先行投資は大胆に行う側面があり、当時としては珍しかった鉄製の架線柱も「長く使えて結果経済的」との判断で導入されたものだそうです。実際100年近く使えているので素晴らしい先見の明だと思います。